この記事は、元中国新聞記者の松重美人さん著の『なみだのファインダー広島原爆被災カメラマン松重美人の1945.8.6の記録』を紹介しています。
広島に原爆が投下されたその日に撮影された写真をご存じでしょうか?それを撮影したのが松重さんです。「御幸橋」と言えば、聞いたことがある人もいるかもしれませんね。その日の証言をまとめた本です。
今現在は、出版社のHPで電子書籍が購入できます。紙媒体で読まれたい場合は、図書館をご利用ください。ルビが打っており、小学生から読める本です。読書感想文にも向いています。
※漫画では、ありません。
書籍紹介
概要
1945年8月6日、広島に原爆が投下された日。広島の惨状を5枚の写真に収めたカメラマン・松重美人さんが書いたドキュメントです。何時にどこそこで、このようなことを見た、など事細かに書かれており、またその時にどのように思ったのかと言ったことまでリアルに書かれています。
載せられている当時の写真の数は、あまりありません。当日に撮られた写真5枚と、数か月後に撮られた写真が6枚程度です。当時、松重さんの手元には20数枚分のフィルムがありました。それなのになぜ、撮影された写真は少ないのでしょうか?想像してみてください。
松重さんのプロフィール
大正2(1913)年生まれの松重さんは、1945年に原爆が投下されたとき、32歳でした。当時、彼は中国新聞社のカメラマンであり、司令部付きの報道班員として活動していました。
戦後は、定年まで新聞社で勤務し、定年後は修学旅行生への語り部活動や海外での反核平和を訴える活動に専念。2005年に92歳で、お亡くなりになりました。
8月6日の最初の2枚の写真を撮るまで
午前8時15分
松重さんは、爆心地から直線距離2.7km離れた自宅で被爆しました。その後、一旦30m離れた場所にあった畑へと避難されたそうです。
ガラス片で血だらけになっていましたが、家に戻り、愛用のカメラを持って中国新聞社へと松重さんは向かいます。
もちろん、この時点で落とされた爆弾が原爆だとは、知りませんでした。
午前9時30分
御幸橋を経由して新聞社へ向かいました。御幸橋までの道中で、松重さんが出会ったのは憲兵一人だけだったそうです。
松重さんは、鷹野橋まで行き、そして紙屋町を経由して、爆心地から約900mの位置にあった中国新聞社(現在の広島三越の場所)へと向かおうとしました。しかし、火災のためにそれ以上は、進めなかったそうです。
その時、広島新聞社本社は全焼し、100人以上の死者が出ていました。
「なんとしても社か司令部へ行かねば」という思いで、松重さんは御幸橋まで引き返し、川沿いに新聞社や司令部があった場所を目指しました。
しかし、そこも火災に見舞われ、炎は竜巻のように渦巻いていました。とても進むことができません。結局、松重さんは再び御幸橋に戻ってきます。
午前10時すぎ
松重さんが火災から逃れて一段落した時には、午前10時を少し過ぎていたそうです。その頃には、広島の中心部から応急治療を求めて避難してきた数十人の人が、御幸橋に集まっていました。
午前11時すぎ
重松さんは、生死をさまよう人々を前に、その悲惨な現状にカメラを向けることをためらいました。しかし、後世に伝えるために撮らなければいけない。それに、その場にカメラを持って、写真に残せるのは松重さんしか居ません。30分もの間、撮るべきかどうかを悩み、最初の写真を撮りました。
そして、涙でファインダーが曇る中、2枚目のシャッターを切りました。御幸橋で撮れた写真はわずか2枚だけでした。
「火傷をしているみなさん、そこに横たわっている罹災者のみなさん。いま私はみなさんの死の苦しみにあるその姿を写真に撮りますが許してください」
――松重美人
引用元:『なみだのファインダー』17ページより
※本にあった昔の地図を参考にマップピンを置きましたが、当時とは道が異なります。「大体、この辺」という程度で参考にしてください。正確ではありませんのでご注意ください。
理解を深めるための資料
動画
松重さん、ご本人による証言ビデオです。
当時、御幸橋の写真に写っていた坪井直さんの証言です。坪井さんは、2016年に来日した当時、大統領だったオバマ氏と広島で握手していた人です。⇒被爆者・坪井直さん 未来に遺したメッセージ
WEB記事
御幸橋で撮影された写真に写っていた人の証言をまとめた記事です。
まとめ
恥ずかしながら、松重さんが撮影した写真について、この本に出会うまではあまり意識していませんでした。この本を読めば、きっと皆さんも見る目が変わるはず!この本を是非、手に取ってみてください。そして、証言ビデオやウェブ記事も併せてご覧いただければ幸いです。