この記事は、語り部の米澤鐡志さんのお話をまとめた『ぼくは満員電車で原爆を浴びた 11歳の少年が生きぬいたヒロシマ』を紹介しています。
米澤さんが実際に体験した被爆体験が詳細に書かれています。子ども向けですが、今だからこそ大人にもぜひ読んでいただきたい一冊です。また、被爆体験だけでなく、戦時中の子どもたちの生活にも触れています。
子どもの読書感想文にもぴったりです。
※漫画では、ありません。
作品紹介
あらすじ
広島に原爆が落とされた1945年8月6日。米澤鐡志さんは、爆心地から750メートルの満員電車内で母親と共に被爆し、奇跡的に生き延びました。原爆投下直後の広島はまるで地獄のようでした。体の一部が欠けたり、皮膚が垂れ下がった人々が混沌とした街をさまよっていました。
この本は、11歳の米澤少年の目で見た「8月6日」と、その後の出来事が語られています。
米澤さんのプロフィール
1934年生まれ。被爆した当時は11歳(小学5年生)でした。被爆体験を語る活動や反核運動に尽力され、2022年11月に88歳でこの世を去りました。
米澤さんが被爆した時の状況
被爆した場所
爆心地から直線距離750mの場所で被爆しました。徒歩で約10分の距離ですから、非常に近い位置にいたことがわかりますね。
助かった理由
一冊の本にまとめた理由
米澤さんは何度も、体験談を一冊の本にまとめるよう周囲の人から勧められていました。ですが、少年時代の記憶のため正確ではないものを残すことにためらいを感じていたのだそうです。
ですが、2011年3月11日東日本大震災による原発事故をきっかけに考えが変わりました。戦後数年で平和利用だと原子力発電所が日本中に建設され、その結果が、3月11日の悲劇に繋がったからです。
このまま黙っていたのでは、いつの日か、何もなかったことにされて、歴史の中にうまれていってしまうような気が強くします。
――米澤鐡志
引用元:「あとがき」113ページより
私が聞いた語り部さんの体験談
修学旅行での聞いた被爆体験
私の小学6年生の修学旅行の目的地は広島市でした(1996年)。その時に被爆体験をした語り部さんのお話を聴いたことを覚えています。しかし、当時は真剣に聞いたつもりでしたが、内容がはっきりと思い出せません。
うろ覚えですが、折角、聞いたお話ですので思い出せる部分だけでもご紹介します。
語り部さんのお話
印象に残った部分
被爆時、彼は足に怪我を負い、通りすがりの男性にゲートルで応急処置をしてもらう。後日、ゲートルを返すために男性を探すと、無傷だったはずの男性が原爆症で亡くなっていた。
――という話だったと記憶しています。
他に思い出せること
他にも位牌について、何か仰ってたように思います。裏に「原爆死」と書いてあるという話だったように思いますが、あまりにも記憶があいまいです。
情報募集
もし、この語り部さん(男性)が残している記録などご存じの人いましたら、情報下さい。よろしくお願いします。⇒連絡先
今の「平和学習」に思うこと
広島市内で見かけた違和感
地元の小学生
5年ほど前に広島市を訪れた際、平和学習中と思われる地元の小学生を見かけました。彼らが平和公園内で騒いでいるのを見て、少し違和感を覚えました。傍に居る教師も特に注意もしません。
周囲の景観
また原爆ドームの周囲に高い建物が複数ある景観に、違和感を感じました。原爆ドームが「原爆の悲惨さを伝える」象徴としての役割を果たしているとは、思えなかったからです。
2022年になって、はじめて周囲の建物への高さ制限が設けられたようですが、遅すぎるのでは・・・?
最近の修学旅行
修学旅行の行き先
私が住んでいる地域の小学校では、昔は修学旅行の行き先がほとんど広島でした。でも、最近は行き先が変わっています。
小学校教師
知り合いの小学校教師と、この話をすると、「平和教育って、どうすればいいのか分からない。そもそも必要かどうかも分からない」と言うのです。その教師は私より3歳ほど年上です。
来年は、終戦80年
私が小学5年生の時は、終戦50年でした。当時は今よりもテレビで熱心に戦争について取り上げられていたことを覚えています。
しかし、徐々にテレビでも8月に少し取り上げる程度になってしまいました。来年は戦後80年です。今現在、すでに『何もなかったこと』になっていないか、そのようなことを考えてしまいますね。
補助資料
この本を読むにあたって、理解を深めるためにネットで見える資料をご紹介します。無料です。
まとめ
米澤さんが入学した小学校は広島市立神崎国民学校で、『はだしのゲン』の作者・中沢啓治と同じ学校です。米澤さんの弟やいとこは中沢啓治と同級生だったそうです。
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